この
巨人3連戦、なんかフシギな結果になってしまいました。
というのも
第一戦:勝ち試合→≪結果≫負け
第二戦:勝ち試合→≪結果≫勝ち
第三戦:負け試合→≪結果≫勝ち
3連勝できたかも、と思う半面、ヘタしたら1勝2敗になってたかもしれませんでしたからかね。
しかし、やっぱり3番打者がボトルネックになっているという事実は否めないわけで、せめてあとヒット一本でも余分に打っていれば、と考えてしまうのです。
でもアタシはこのキンケードという選手を、どうしても嫌いになれない。なぜならアタシの幼少の頃の記憶を呼び起こしてくれる存在だからです。
アタシがプロ野球に興味を持った昭和51年。この年阪神には2人の外国人選手がいました。ブリーデンとラインバック。キンケードは≪バッティングフォームと腕っ節≫はブリーデンを、≪ガッツと愛称≫はラインバックを彷彿とさせるからなんです。
今回はアタシがもっとも愛した助っ人。マイク・ラインバックについて書きたいと思います。なにせメチャクチャ思い入れの強い選手なので、かなり感傷的になるかと思いますが、どうかご容赦ください。
今の目でみればラインバックという選手、結構個性的ないでたちでした。もじゃもじゃ頭に口ひげ。しかし当時大洋にはシピンという≪ライオン丸≫と呼ばれたほど猛烈な選手がいたし、日本人でも
阪急の
森本なんていう≪独特≫としか形容しようのない選手がいたので、ラインバックが特別個性的であったわけではありません。
入団初年のオープン戦の頃、リアルタイムでの記憶があるわけではないのですが、とにかくさっぱり打てなくて、いや打てないというより打球が外野まで飛ばないとすらいわれたようです。ところがシーズンに入ると快打を連発。この年打率.300、本塁打22本をマークします。また足もそこそこ速く、11盗塁を記録しています。
この選手の難点は守備でした。当時阪神のエースだった
江本孟紀が書いた『プロ野球を10倍楽しく見る方法』にこんな記述があります。
『…わが僚友のラインバックの場合は、ファインプレイの連続でピッチャーの心臓を凍らせてくれた』『ピッチャーがイージーフライと思って振り返ると、あら不思議、ラインバックが、帽子を吹っ飛ばして打球の下にころげこんでくるではないか』『ラインバックのキャッチした場所はライトの定位置のすぐそばである』『彼の守備はいつもファインプレイもどき。事情を知らないファンの大喝采をあびるという、なんとも得な役まわりの男だった。…』
もちろん少しは脚色してあるのでしょうが、アタシの記憶でも実にファインプレイの多い選手で、彼のスライディングキャッチは
甲子園の名物になっていたと記憶しています。
一部の人にはその≪カラクリ≫は知れていたんでしょうが、なにはともあれ、ファンは彼のひたむきプレーに喝采をおくりました。同時に入団したブリーデンが2年で解雇になったのにたいし、ラインバックが都合5年間日本でプレーしたのは、ファンへのアピール度の大きさもあったように思うのです。
アタシがこのガッツあふれる助っ人に特別な思いを持つようになったのは、ある出来事がきっかけでした。
たしか1977年のことだったと思う。甲子園のデーゲームを観戦した小学生のアタシは、ひとしきり選手の出待ちをして、阪神甲子園駅から電車に乗った。たしかこの時の出待ちは無駄骨だったように記憶している。
阪神の帽子をかぶり、球団旗を手にもって電車に乗っていたアタシに向かって、応援団の人とおぼしい人が声をかけてきた。
『僕ら阪神ファンか?あっちの車両にラインバックおんでぇ』
あわてて車両を移ると、たしかにラフなかっこうをしたラインバックが電車に乗っていた。たぶん
神戸の自宅に帰る途中だったのだろう。
若いファンはまずこのくだりを信じられないと思う。文句なしのスタープレーヤー、しかも外国人選手が電車通勤なんて!しかしたしかに彼は電車で通勤していた。そしてごくふつうに座席に腰かけていた。
アタシはとにかくサインをしてもらおうと、阪神子供の会の手帳とマジックをラインバックに差し出した。彼はしごくにこやかにサインをし、握手をしてくれた。子供のアタシに英語は話せない(実は今もだが)。だから何か会話をしたということではまったくないのだが、それはまぎれもなく生まれて初めて外国人とコミュニケーションをとった瞬間だった。しかもその相手が阪神の選手だなんて!
それまでもラインバックは子供ながらに好ましい選手のひとりだった。しかしこの出来事以降、特に熱心に応援する選手になった。たぶんこの頃から大好きだった
田淵と同等の存在になった気がする。
ラインバックといえば、
江川のデビュー戦での逆転ホームランを思い出される方も多いのではないでしょうか。
江川の入団の経緯はググってもらうなりして、ま、とにかくこのデビュー戦の雰囲気たるやすさまじいものがありました。江川とすれば、ここで圧倒的な力を見せつけて悪役から脱却しなければならない。かたや阪神は当事者でもあったわけで、絶対負けるわけにはいかない。なにしろここで江川に抑えられでもしたら、今度は阪神の方が世間の笑い者になる可能性さえあったのですから。
1979年6月2日。場所は
後楽園球場。異様な雰囲気の中、試合は始まりました。阪神はさして調子がいいとは思えない江川を攻略できず、イニングだけが進んでいきます。しかもこの年初めてのホームラン王を獲得する若き主砲・
掛布はケガで欠場中。とにかく阪神にとってはかなりキビしい状況になっていったのです。
7回、若菜のホームランで2-3と追い上げたもののすでに2アウト。しかしそこからランナーを2人だして、バッターボックスにラインバックを向かえたのです。
結果は、まさに全阪神贔屓の夢をのせて、打球はライトスタンドに消えました。逆転3ラン。絶対負けちゃいけない試合。ギリギリのところで踏みとどまったのは、まさしくラインバックの一振りだったんです。
この試合をテレビで観ていた小学生のアタシは、『やった!』というより、とにかくホッとしたのを憶えています。もしこの試合阪神が負けていたら、アタシは野球にたいして興味を失ったかもしれません。なにしろ大好きな田淵は前年の暮れに新生西武ライオンズにトレードになっています。もしここで阪神が負けたら、江川に負けたら、すべてが茶番のように感じる可能性さえあったと思うのです。だからアタシの中でも特別な試合だった。
田淵のいない阪神、掛布の欠場している阪神。決めてくれるのは、大好きなラインバックしかいない気がしていました。そしてその通りやってくれたのです。もうそれはうれしいを通りこしていた気がします。なにか『これからも阪神を応援してくれ』というメッセージにとれたのです。
この一打で阪神は勝った。大好きなラインバックの活躍で勝った。アタシはまるで身内が活躍した、メッセージをくれたような感覚さえおぼえたのです。
≪まるで身内≫のラインバックの死を知ったのは、たぶん『探偵!ナイトスクープ』だったと思います。事故死とされてますが、自殺であったという説もあり、よくわかりません。
涙はでませんでした。ただただ信じられない気持ちしか持てませんでした。とにかくそれはプロ野球選手にたいしていだく感情ではなく、それこそ≪まるで身内≫の死に近いものでした。
阪神ファンに愛されたオマリーは特命コーチとして阪神に帰ってきました。バースだって生きている限り、なんらかの形で阪神に関わる可能性はあります。でもラインバックにはもうそれはありません。クサい云い方をすれば、もちろん多くの阪神贔屓の心の中にはいます。しかし所詮は記憶の中でしかない。
だからね、せめて、たとえほんのわずかでもラインバックの影をみることのできるキンケードには絶対成功してほしいんです。今の阪神ファンの子供が大人になるいつの日か、『オレの子供の頃にキンケードっていうガッツあふれる、ええ選手がおってな…』と語り継がれるぐらいに。